ログインできた

なんか思い出して開いたら奇跡的にログインできたので書いてみます。2人はもう見てないだろうね…たっきーは見てるのかな?

天国につながるWi-Fiがどこかにあると信じてインターネットを彷徨ってみても、たっきーはもう転生しているかもしれないね。近くにいるなら教えてよ。いや、実はさなえちゃんのお腹の中にいたりしてね…………(2人目おめでとう!)


ところで私は2016年から勤めた会社を辞めることにしました。すごく悩んで考え抜いた末に答えがあって良かった。悩みすぎてカウンセリングに通ったよ、、、(なおちゃんには話したね)

このカウンセリングが私にとってはとても良い効果があったんだ!自分の思考をひとつひとつ整理していっただけで心のモヤモヤの原因と解決策がぼんやり見えてきて、視界がクリアになった。それから私、ほんのりと良い感じです。新興宗教にハマって良い感じになっていく人の心がなんとなく分かる。


私はカウンセリングを通じて自己啓発に成功してほんのりと良い感じになったわけだけど、それが人によって経典だったり水素水だったりしながら、必要なものは「これをすると自分が良くなっていく」と信じる心意気なんだと思う。

私の場合はカウンセリングを通じて自分を(ある程度)理解し受容できたことが、ほんのりと良い感じになる鍵となってくれた。

カウンセリング通ってます、というとメンタルが不安定に思われがちだけどもっと気軽に通っていいと思う。良い先生に出会えるかどうかで大分変わると思うけど、健康的に生きていくために必要な時が誰しもあると思う!私はおすすめします。

さなえちゃんおめでとう

さなえちゃん

ご結婚おめでとう、すばらしい…

お相手はどんな方ですか?

結婚式の予定はありますか?

近いうちにお祝い会したいです

きっとたっきーなら喜んで、そして寂しがるんだろうなぁ、、、

 

 

 

私はというと、とうとう28歳になり、実家に帰れば両親からは結婚もせず大した金にもならない音楽活動をいつまで続けるのか?とやんわり聞かれたり、だんだん居心地が悪くなってきました。同級生の親なんかは会話の入り口が"武道館はまだ?"だったりするからタチが悪い。地元のことは早く老婆になって忘れたいです。

というようなこともあって最近はずっと"続けていくこと"について考えています。継続も結婚も仕事も趣味も芸術もその意味とか価値は自分で考えるしかない。それなのに結局何をどんなに考えたとして、事実も空想もすべては錯覚なんだから虚しいです。

 

 

もう自分が被災したことを忘れる

久しぶりになりました。

2人とも誕生日おめでとう!1日遅くなっちゃったけど…。


今、会社の人と一応交際をしていて年内に結婚しようかなと思っているんだけど、同じ会社の人というのはまあめんどくさくてしんどいです。

割と近い所にいるから周りの人には公にしていないので、相手への仕事上への悪口を聞いたりすると分かってはいるけど本当に辛い。


大して思ってもいない、周りに合わせるだけの悪口って言っても何も良いことはないなと改めて思いました。自分も、知らない内に知らない所で誰かを傷つけたりしてるのかな。

思ってないことを口にするのはやめよー。

文句しか言わないおばさんになるのはやめよー。


たっきーと一緒に過ごした時間の長さを、たっきーが亡くなってからの時間が追い越してしまった。

調髪のキング 閉店


ただの身内の話ですが…

去年の年末に祖父が亡くなって、その祖父が長年細々と営んでいた床屋も閉店しました。90近い歳だったので現役理容師だとだいぶ高齢な方だったんじゃないかと思う。
(最近の葬儀でびっくりしたことは湯灌の時顔に潤いを与えるシートパックをする!祖父は人生初パックだっただろう…)

祖父の店は、昭和の時代そのままの結構…かなり…ボロい感じの床屋で、店の中も家具も道具も何から何まで昔からの、ガチのレトロな物品を使い続けているのでほとんど開拓の村に展示してある床屋に近いところすらある床屋だったのだけど、私はそのレトロ過ぎる道具を見るのが結構好きだった。
薄緑色の四角い消毒機械や、オレンジと青の花火のような謎の模様がついた銀色のタオル蒸し機械、青い縁取りのある白いホーローの洗面器、金属がガチャガチャなる手動調節椅子、蛍光紫や蛍光緑のポマード、ウサギだか豚だか馬だかの毛のブラシ、髭剃り用の泡立て刷毛、ボロい箒とちりとり、煙突ストーブとその周りに置かれた客用のジャンプとスピリッツと週刊誌、茶色いソファ、でかいガラスの灰皿、やかん、雑に重ねられた営業許可証、棚の中に並んでる鋏と剃刀とバリカン、客は常連の高齢なお爺さん達、外にグルグル回っているあの赤と青と白のやつ、

そして店は怪しいリフォーム業者や電気屋に定期的にカモにされかけるを繰り返していた…多分…

多少の親戚トラブルもありつつ最近ようやく少しずつ片付けられているようでいずれは綺麗に何もなくなる。それはちょっと寂しいけど仕方ないことだし、身内の話を人に公開するのは恥ずかしいけど、昭和の空気を残しすぎてた床屋とその道具のことをこれからも少し覚えていたいと思って書きました。

今は犬がひとりでその家に住んでいる。夜は近所に住む叔母が世話しに行ってるみたいだけど昼間ひとりでどのように過ごしているのかなぁ。犬は、それまでずっと同じ空間に暮らしていた祖母や祖父がもう帰ってこないことをいつの時点でどのように理解しているんだろう。むしろ人間の私が死んだ人はもういないんだと理解できているといえるんだろうか。未だに。

おじいちゃんの家は床屋なんだよね、店名はバーバーキングという話をしたら綾子ちゃんがなぜかその店名いいねと笑ってくれたなぁという事を思い出しました。

14日にタッカンマリ食べるの楽しみです。

なお

あっという間に今年も終わっちゃうね。

年末といえばジャニーズのカウントダウンコンサートが毎年あるじゃないですか。

社員の人がそれに当選して休むために嘘をついたりと色々売場をひっかきまわして結果やめていきました。

その人の人生だから全く止めようとは思わないけど共感はできなかった。

アイドルの好きになり方は多種多様だね、アイドルに限らずかもしれないけど。


FNS歌謡祭で平井堅のノンフィクションに合わせて踊る平手友梨奈さんを見てえらく感動したわけですが、ノンフィクションという曲は友人が亡くなったことを書いた曲だと知り、平井堅の歌を聞いてはじめて泣いてしまった。昔から平井堅の歌い方が苦手だったんだけどめちゃくちゃ歌がうまいな〜と思った。


私は年上や目上の人に気を使うのがとても苦手なんですけど、それは当たり前だと思って最近開き直るようになりました。

例えば典型的な飲み会の席でも、後輩の飲み物がなくなっていたら頼みづらいのかな〜何飲むか聞いてあげよう。と自然に思えるんだけど、おじさんの空のグラスは全く目に入ってこない。喋ってるおじさんの話を中断して何頼みますか?と聞くのも面倒くさいので無視しています。

小学生の時は、高学年の人が低学年の面倒を見てあげようねというスタンスだったのに、どうしてそれが中学になると突然先輩後輩の上下関係になるのかが分からない。

部活においても後輩が掃除やゴミ捨てや雑用しろという風潮が普通かもしれないけど、それは誰がやったっていいし、上級生の方がどうしたって周りが見れるし余裕もあるんだから先輩がやった方がいいんじゃないかなと思う時もあった。

兄弟がいる人は下の子の面倒をみるよう育ってきたのにどうしていきなり年上に気を使わなければいけなくなるのかが理解できない。

どうして突然物事の常識って変わるんだろう。

高校生は化粧が禁止なのに社会に出たとたんそれがマナーとか、そういう類も全く理解ができない。


最近アートらしきものに全く触れていないなぁ。

芸森のビュッフェいってみたい。。


さなえ

27歳の恋なんて

札幌国際芸術祭、やってたよね。なにか見に行った?私ほとんど見れなかったんだけど、次回はのんちゃんがディレクターになってくれたら良いなと思った。地域を盛り上げるならもっとポップで、もっとお手軽で良いんだとおもう。

 

でね、芸術の森ボアダムスってゆー結構前衛的な音楽集団の創始者山塚アイという人が展示をしていたので唯一それだけ見に行った。マークがおしゃれだなと思った。(写真撮ったら知らんおばさんが見切れてしまった笑)

 

展示の内容はまあ良かったんだけど、見終わって帰ろうと思ったら、みつはし先生に遭遇しました。声をかけたら元気そうに笑っていた。中年の男性と2人で来ていた。

 

私の姿を見て思い出しただろうか?たっきーのことを少しでも思い出しただろうか。たっきーを思い何を考えただろう。

そんなことを思いながら、芸森のランチビュッフェに行った。あれはかなり良いビュッフェ。おすすめ

 

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たっきーがいなくてもアラサーを楽しもうね。

それにしてもデイドリーム・ビリーバーだったよね

ブログにタイトルをつけてみた。暇すぎる。みんな好きに変えてほしい。

なんか長くなってしまったので適当に読んだり読まなかったりしてください。

 

久々に覗いてふたりとも更新してると嬉しい。あたたかくなってきたし、お墓に行きたいね。私が生きるのが楽になったと感じる最大の理由は、自分について折り合いがついてきた(付けられるようになった)というところな気がする。私も家族にはほとんど何も言われない(諦めてと私が念を押している為)が、職場ではよく「はやく結婚して子供産んだ方がいいよ」とかいつも言われる。家族にしろ職場の人間にしろ何を言われようが「生きるのは私だ」と開き直って聞き流すようにしている。最近は何もかもオールオッケー、多様性全受容の時代になってきている(まだ差別とかはなくなってはいないけど、差別というよりも理解や認知が及んでいなくて配慮の仕方が分からないだけだと思う)のを感じていて、それに便乗して私もこれでオールオッケーなんだという気持ちになってきています。つまりオバサン化。図々しくなっていく自分に怯える毎日。

 

たまに自殺が悪なのか?ということを考える。生きてるだけでオッケー、でもだからといって死ぬのが悪いことではない。ただ死んだら何もかもが終わりだから終わりにしたいならどうぞ勝手に死んでください。というのが私の考えです。最愛の友人を亡くしたけれど、やっぱりそう思います。あの子が本当に人生を終わらせたかったのなら仕方がないと思う。だけど本当にそうだったのか?知る術がないことと、誰ひとりとして何の支えにもなれなかったことがいつまでも心に引っ掛かるのです。でもさ、もしたっきーの本心が「人生を終わりにしたかった」のだとしたら辛すぎるから、未来永劫知らないままでいいんだと思う。

 

デイドリームビリーバーの歌詞のこと、そういえばそんなに深く考えたことがなかったです。二人の日記を読んで、確かにそうだなあと思った。それで、気になって原曲の歌詞を調べてみたんだけど、原曲の”クイーン”はhomecoming queen(=学園内などで注目の美人)みたいで、内容的には「お金がなくても僕たちなら楽しくて幸せだよね(だけど本当はお金がいくらあればいいんだろう?」という感じ。「まったく(美人の彼女と付き合えたからって)浮かれちゃってしっかりしなさいよ~」みたいな茶目っ気のある曲で、そもそも喪失の曲ではないみたいだった。だからCMで使われているのはプライスレスな幸福、だとかセ/ブ/ン/イ/レ/ブ/ン”いい気分”=夢見心地=Day dreamと思えば合点がいくような気がしないでもない。

www.youtube.com

たっきーは忌野清志郎のデイドリーム・ビリーバーが好きだっただろうけど、原曲の歌詞は全然違うってことであのコンビニを許してあげられないだろうか?違うか・・・。

ちなみに私は最近、あの店内BGMを全く気にしなくなっていました。愚鈍。

こうやって記憶の何もかもが薄れていって、そして私も忘れられていくんだと思う。誰かの忘れられない人になるくらいなら、たった今この瞬間からとっとと忘れてもらいたい。なんて考える一方で、本当はそんなの寂しいじゃんと思っている。矛盾。

 

歌詞の内容はさておいても、たっきーにはデイドリーム・ビリーバーという単語がすごくピッタリだよね。まるでテーマソングみたいに似合っていたと思う。確かに歌詞はすごく残酷だけれど。お葬式が終わってエンドロールが流れるみたいにあの曲が掛かったとき、鳥肌がたった。たっきーのことを愛おしく感じて、たまらなく悲しかった。

 

どうでもいい話をまだまだ続けてもいいですか。暇なのです。

なんでセブンで使われ続けているのか、3.11被災者への思い?とか色々考えつつ調べてみたら、単純に1.長年親しまれてきた名曲であること、2.社内評価が高いこと、が理由なのだそうです。全部ネットで調べたことなので真偽は分かりませんが。拍子抜け!

 

独居生活楽しすぎて誰とも遊ぶ気が起きない。誰もいない家で何もしないということがこんなに楽しいとは・・・。生活を営むということにこんなにも娯楽が溢れているとは・・・。もう死ぬまでこのままでいい気がしている。なんて思いながら、本当はそんなの寂しいじゃんと思っている。だせぇ・・。

 

駄文長文スマソおわり