たっきーはトマトをたくさん食べていたから白いのか

たっきーのことについて、当初はどうにかして過去に戻ってどうにかすることは出来ないのか?と考えていた、というか私は昔から悲しいことがあるとすぐ時間を戻す方法を調べる現実逃避癖があるんだけど、最近浅田真央さんがテレビで「過去に戻れることはないので昔の自分にかける言葉はない」ときっぱり言っていて妙にスッキリした。科学的に時間は元に戻せないうんぬんを説明されるよりずっと、あ、ほんとに無理なんだ。とようやく理解できた。ありがとう真央ちゃん。

 

私もなおと一緒で、歳を重ねるごとに楽になっていることと、そうでないことのどっちもあるかなあ。昔すごくコンプレックスだったことや劣等感だったことがどうでも良くなったりもするけど悩みが無くなるわけではない。今のところ一生こうな気がしているし、将来への漠然とした不安みたいなものはなくならない。

 

私は親に「結婚」とか「孫」とかそういう話を一切されたことがありませんでした。

でも先日祖母が亡くなって、四十九日法要で納骨堂に行ったら消防法の関係で納骨壇を買い替える必要がある話をされた。割とそれも驚いたけど大きさによって納骨できる量と金額が変わってくるのでどうしようね~となり、そこではじめて母親に「さなえもお嫁にいくかもしれないからお父さんとお母さんのあとは誰も入らないかもしれないしね」と言われた。

お母さんは実家ではなく菊地の墓に入るのか。(そりゃそうなんだけど)

私は結婚したら相手の墓に入るのか。

ていうか私が生涯独身でもここに入る人は自分が最後なのか。

私が死んだあとってこの納骨壇はどうなるんだろう・・・。

いろんな感情がごちゃまぜになりすぎて「そうだよね・・・。」としか言えなかった。

 

友達の誕生日に死後の話ばかりしてすみません。

たっきーにツイッターのDMをたまに送ってしまうんだけど、名探偵コナン灰原哀が何かあった日は死んだ姉の留守電についついメッセージを吹き込んでしまうのを見て親近感を覚えた。

 

職場の人に夕張メロン農家との婚活パーティをすすめられたけど農家は大変だと思う。しかしメロン農家は農家の中でもヒエラルキー高めらしいけどどうなんだろう。日焼けしたくない。白くなりたい。

未婚の子供をもつ親のための婚活セミナー

お墓参り、私も行けたらいいなと思ってた。4月末か5月始めくらいに行けるかな。


デイドリームビリーバーの件、本当にずっと使われ続けていて、当時きっと1年くらいだろうと思っていたのに変わらず店内でもエンドレスサビなので私も店に入る度色々思い出すし毎回内臓が若干重くなったような不調を感じる。

一連のお経やお話が終わって、お棺の前で泣きながらしゃがみこんだ茜や空いた窓のところから顔を見て口元を手で押さえるさなえちゃんの映像も思い出す。お通夜の日のことで1番頭に蘇ってくるの、皆が顔を見せてもらってる時瀧さんのお父さんが棺を小さい子寝かしつける時みたくずっと優しく手でポンポンしてた映像。


デイドリームビリーバーは名曲だから他の映画や雑貨屋のBGMとしてもばんばん使われているので避けようもない。


私はあの曲の歌詞をお葬式で聞いてから初めて調べたけれど、ずっと夢を見て今も見てるというのは忌野清志郎のお母さんが死んでしまった事に対する清志郎の気持ちなのだろうか。

全然違ったらすみません。恥ずかしい。

歌詞を聞いてると、それまで自分は当たり前に気楽に暮らしていてそれがずっと続くとしか思っていなかったのが、急に状況が変わって今までが楽しい夢だったのかこうなってしまった現実が怖い夢なのかわからないという当時のぼんやりした感覚をよく自覚させられるなぁと思う。

セブンアンドアイのCMで見せられている家族団欒一緒におでんみたいな暖かみのある光景が一気に儚く都合の良い虚像や誰かの幻想、または回想であることを示唆しているように思えてきて、そんなのCMとしてダメじゃないか。他の使用場面でも、何楽しくのどかなひと時の象徴みたいな感じで使われてんだ?あのテーマ曲であるということは、幸せな団欒を最中ではなく過去形として振り返ってるということじゃないですか?あのCMには実は皮肉や教訓をこめられた側面があったのか?

それにしても歌い出しがもう彼女はどこにもいない♩なんてあの場で聞いた曲の歌い出しとしてあまりにも酷くないですか。そう思って2013年から2017年まで過ごしてきたよ。


生きやすさについて、私は年々ある面では生きやすくなっているけど違う面では生き辛いなと感じているよ。将来イオンのフードコート周辺をブツブツ呟きながら徘徊するキチガイホームレスおばさんになるんじゃないかという不安がある。人間になりたい。

27歳になる綾子ちゃんならどうだったかな。勝手な予想をする事しかできないね。色々話したいな。



近況

最近「お嬢さん」という映画を見ました。美しさが最高でした。主人公の女の子がこぶしファクトリーの野村みなみなさんに似てた。

それで帰ってきたら冷蔵庫に「未婚の子どもをもつ親のための婚活セミナー」という新聞の切り抜きが貼ってあった。失踪したくなった。

なお

いまるちゃん

生きてるだけでOK!まァイロイロあるケド

生きてるだけでOK!他に何がいるのさ?コレでOK!

ふとパソコンに入っているたっきーのカラオケ音源を聞いたらそんなことを歌っていて腹が立ったのでブログを開いたらさなえちゃんが更新していて少し落ち着いた。こんな皮肉ってある?全く笑えないよ。死んでんじゃねーよ!

 

たっきーのことをふと思い出すけれど、もう自分の中で「どうにもならないこと」として受け入れてしまった感覚がある。納得いかないし悔しいとは思うけどもう何を思っても二度と会えないし帰ってこない。何事もどうにでもなれと思っているけれど、何をどうやってもどうにもならないことについて考えるのが最近、苦手になってきた。本当にどうにもならないのか?とはたまに思うけど、やっぱりどうにもなんない。死んだらもう終わり。何もかも。愛も友情も相手(対象)が死んだら終わりだと思う。同じ時間を進めない時点で、もう何もかも終わりだと最近なんだか強く思う。

私がどんなに一緒にいたくても何の返事も(拒否の意思すら)受け取れなくなるのだからそれはつまりコミュニケーションや人間関係として「無」というそんな気がするので死んだあの子は親友だったけど今はもう親友と呼べる相手ではないのではないかみたいなとても寂しいことを思ってしまったです。

 

いきなりだけど、私は歳を重ねるごとに生きやすくなっていっているんだけれど、みんなはどうですか?ということをたっきーにも聞きたかった、どうにもなんないこと考えさせないでほしいよ本当に。帰ってきてよー。

にせんじゅうななねん

セブンイレブンのコマーシャルや店内でいつまでデイドリームビリーバーが流れるんだろう・・・と思ってはや4年以上が経ってしまった。

使われなくどころかインストとか女性がカバーしたバージョンとかも流れていてその度ほの暗い気持ちになる。

 

今年ももうすぐたっきーの誕生日ですね。

行けたらその付近でお墓参りにでも行きたいなぁ。

 

さなえ

コナンのアニメ、100話超えても灰原哀ちゃんが出てこないのだが・・・

先日はるひの結婚式に出たときに、はじめて会ったお母さんがたっきーのことを少し話してくれたのが嬉しかった。

多分たっきーと一度くらいしか会ったことがなくてもある意味忘れられない人になっているのに、先生や修論の彼女はとても無神経だと思う。言葉の通りどこかの神経がひとつ無くなってしまっているから、自分の行動や言動が誰かを傷つけていることや腹を立たせていることに気付いていないんだろう。本当に罪深いと思う。

ちなみに私は二人に興味が無いためかその話を聞いたときの記憶があまり無い・・・。

 

内心どう思っていたかわからないけど、たっきーはあまり悪口を言わない人だったから、先生の悪口も聞いたことがなかった。

先生のクソ適当な授業(なんかうろ覚えだけど生き残るための自分のアピールポイントを言うグループディスカッションみたいなやつ)に対しても自分が真剣に取り組めばなんでも自分の身になるみたいなことを言っていた気がする。

福山先生が泣いていたのはちょっと驚いた。

先生元気かな。

 

 

このまま仕事対してに真剣に取り組んでもきっとこの先楽になることはないし、例え役職や地位やある程度のお金を手に入れても、残るものは何もないと思う。

50歳くらいになって、まあそもそも生きてるかも分からないし会社もずっとあるかも分からないんだけど、余生を楽しむ系の楽なところに異動しても、ずっと仕事しかしてこないから趣味もないし、親ももういない可能性もあるし、結婚もしてないから家族もいない・・・なんてホラーになる気しかしないので、仕事はどうにでもなるし自分の代わりなんていくらでもいるからもうちょっとプライベート的なところをなんとかしたいなと思います。

 

お好み焼きをおかずにごはんだって食べれるから大阪にも嫁げるのにな・・・。

 

さなえもん

呪いの秋

さなえちゃんお祝いありがとう。これでみんな26歳だね、たっきーを除いて。私たちはこれからも子どもおばさん道を突き進む他ないわけだけど、それもなかなか悪くないのかも、と思ってる。でも、たっきーがいたらもっと悪くない人生になってたはずなんだよね。そんなこと考えたって仕方がないんだけど。

 

なおちゃんの前回のブログ、私怨が篭っててすごくゾッとした。今頃具合悪くなってるんじゃないかな、みつはし先生。

 

facebookでみんなの楽しそうな写真見て変わってないなーと思った。大学時代、初めてみんなと会話をした時からきっと変わっていない。当時、あの子たちとは幸せの形がまったく違うんだ、私のことなど分かってはもらえないだろうという偏見があったそのままに、気付けば、歩む人生にも決して交わることのない隔たりが出来ていた。まあ、私から距離を置いてるんだから当たり前だよね。かつての同級生なんて所詮その程度だ。

 

修士論文の件、私も直接聞いてたらその場でブチ切れてたかもしれない。でも、彼女にしてみたら(彼女たちの基準において)幸せじゃない女の醜いやっかみぐらいにしか捉えてもらえないんじゃないか、とも思う。

 

あの先生には何を言っても無駄だと思う。何を打っても響かない人なんだろう。マネジメントとはいえ、芸術とともに生きる教員の感性として全く信頼できないし尊敬もしていない。もちろん人間としても女としても、あの先生の言葉が胸に響いたことは一度もない。興味深いことを言っていたような記憶も全くない。

そしてその事は多分、たっきーも感じていたはず。だから福山先生に論文を見せてたんだと思うんだ。みつはし先生は自分がたっきーに見切りをつけられたことも知らないし、私たちの気持ちも一生分からないだろう。

あの人は本当に、何もしていない。何もしていないから、たっきーの事も他人事でいられるんだと、私は感じている。

これらは私の勝手な憶測だから真相は分からないけれど、間違ってない気がするんだよね。あの人には何を言っても無駄だから、もう殺すぐらいしか方法ないんだけど、あんな人間のために人生を棒に振るのもバカバカしいから、このブログで末代まで呪ってやろうね。

 

 

 

 

福山先生はあの日の直後「私が何か出来たはずなのに」と言って泣いていました。

 これから、お墓参りに行ってきます。